昭和42年01月16日 夜の御理解



 おかげを頂いて来ると、誰でも同じで、慢心がいつの間にか、心の中に出来て来る。慢心が怖い、慢心が大怪我の元になる。このくらいな事はと思う時には、もうすでに慢心なんです。例えば、私、歯を磨くのに、必ず、あの缶入りの、みんな家族中の者が一緒に使う、歯磨き粉を使っていたけれど。この頃、歯がもう、非常に弱ってから、いけないから、お許しを頂いてあのチューブ入りの、100円位するでしょう。
 あれを1つ買うて貰って、あれを使った。ところがその私はもうそれこそ実意丁寧にもう少し少し使うけれど、誰かがあれをガバガバ使っていく。私どもの使う、使い様があるから、綺麗に少しずつ、こう折り曲げ折り曲げして、こう使うて行くんだけれども。誰が使うか、バッと抑えてから、使っているらしい。もう瞬く間になくなってしまった。あぁ、こりゃまあだ神様がお許し下さってなかったんだと。
 許された様に思うておったけれども、これは、やっぱり今までの缶入りのあれにさして貰わねばなるまいと、今朝、風呂の中で中で考えたんですけれども。たったその位の事でもです。これ位な事でもという時には、すでに慢心です。もう本当に恐ろしい事だと。お道の信心が、実意丁寧神信心を抜きにしたら、もう信心はない。その実意丁寧にならせて頂くために、私どもが、その慢心があったら、実意丁寧にはならない。
 本当に、やはり慢心とは、横着と我が儘を除いたら、後が実意がとこう仰るくらいですから、その実意丁寧な信心から、私達は、このくらいの事と云った様な、神様に頂いておるものをお粗末にする。このくらいの事、そう云う思いが起こったらもう慢心です。もう慢心の兆しというものじゃなくて、もう完全に慢心しておる時である。だから、そういう風に見ているところにです。
 私どもが信心を、いわゆる、大怪我の元は作らないで済む、おかげを落さんで済む所がある。例えて云うならば、神様が、どの様な良い物でも、どの様な良い食べ物でも、どういう良い品物でも、神様が下さると云う事になれば、それは、良いねと云って遠慮する事はいらん。おかげは受け徳、受け勝ちと仰るのだから。けれども、不思議な、その許されておる、許されておると、例えば云うものでもです。
 やはりそこを実意丁寧に、横着のない様に、我が儘のない様に、使わして頂くのが丁寧である。そこんところを有り難いと思わして頂くのが、神信心である。特に家族の者が、ここんところにおかげを頂いていかんと、おかげを落す。不思議な事じゃ、これは人間心、不思議だね。ここで私が布一寸買わんとか、米一つ買わんと、買わん主義で行くから、神様がおかげを下さるのだけれども。
 みんなが、ああ親先生に不自由をかけちゃならん、家族の方達に不自由をさせちゃならん、という様な思いも手伝って、その事すでに神様の働きなんだけれども。もう、勿体無い様なおかげを頂いておるけれど、私達がどうだろう。ここではもう本当に、成る程あんなに沢山お米を頂くけども、自分のお家に限っては、もう節米に節米。その為に二度食であり、一度はお粥食である。
 人が来た時にはご飯も炊く、そりゃ何十人あってもさあ炊け、さあ炊けと云うて、炊かせますけれども。自分の家にはそれだけの事をさして頂かなければ、私は相済まんと。いわゆる実意丁寧いわゆる神信心で使わなければと、こう思うからそれは私、家族の者にも云う訳なんです。どうだろうか、これは、他所の教会でもよく聞く事なんで、この頃はもう教会はよっぽど都合のよかじゃろうと。
 みんなも奥さん達の着物から立派になった。不思議にそれをですね、一つの何かその出来るだけ教会の人達には始末して貰いたい。そうせにゃ、やっぱ総代達がですね、ちっと勝手の方が贅沢になりよりゃせんでしょうか。奥さん、ちっと締まって下さいち云った様な、総代達から苦言を受けなければならない様な事になる。そこで、教会の方としては、もそれは、いいや、自分で買うたつじゃない事の為に、どっから貰うた。
 どっから供え頂いたっていうて云い訳せんならん様になる。不思議な事なんだね。どうぞ、あの親先生方を初め、奥さん達でも皆んなおかげ頂いて貰いたいという願いは持っておるけれども。それからと云うて、自分達がそんなら、それを、ほんなら、御下がりなら御下がりを粗末に使う様になると、信者の上に、すぐ、そんな風に響いて来る。ま、ここではそう云うその例がない。
 なぜかと云うと、自分で買うという事をしないから。子供達の物でも、もう本当に最小限度。それを私は、もう緩くなったり、それがルーズになったんなら、もうそれは、慢心であると同時に、それは信者にどう響くか。おかげを受けなければならない、信者がどうそれを感じるか。それこそ、教会の先生を初め、家族中の者が、勿体無いようなお賄いを、受けれる様なおかげを受けなければならん事は、勿論である。
 こんな素晴らしい家に住まわして貰うて、こんな素晴らしい物を身につけさして頂いて、こんな素晴らしい物を頂かせて貰うて、勿体無い、勿体無いと云うところにはです。もう例えば、神様がいやが上にもおかげを下さろうとする働きがある。それをこのくらいな事はと、もうこのくらいの事はと云う様なね事を粗末にしよったら、もう、愈々もっておかげを落す。
 もうそれ何故かって、それが慢心だからなんです。もう本当にこれは、教会だけの事じゃありません。銘々がおかげを頂かせて貰うてですたい。もうこんくらいの事はと云った様な事が、生活の中にもしあるとするなら、そこは慢心だと思うて、改めて行かにゃならん。けれども、神様が不自由な思いをさせたり、寒い思いをさせたり。ただ、苦労を氏子の上に求められ。
 望められなさるという神様ではないから、これは許されてとこういう、例えば、おかげを頂いたら、神様が許されておると。例えばここで、ストーブがいくらもお供え頂いておる。これは許されておると、そこに思うから、それをあぁして使わして頂いても良いのですけれども。そら、寒かけんでストーブばいっちょ買うて来てと、例えば私どもが云っておる様な事ではです。
 そして、それが当たり前の事の様に思うておるところから、私は、大怪我の元が出来て来るとこう思う。私達は本当にこの辺の所を、こうする事が本当だと。と云う事が、それを貫かせて頂く事が、これが真を貫く事ですから、この真が神様に通じん筈がない。もう私達は、椛目から合楽に移らして頂く。家族を初め、信者一同の者が、本当にあちらへ移らして頂いても、本当にそうした慢心気と云った様なものがさらさらない。
 神様の心に叶う心で、あちらに移らして頂かなければならんと思う。身を慎めとこう仰る、慎しませて頂く所にです。私は慢心と云う様なおかげを落す様な元は育たない。それはもう本当に形だけの事ではない、心の上の事にでもそうである。肉体的な事でもそうである。慎みを持っておかんとです、本当にそれが我が儘横着になる、態度でもそうである。自づと心のものがやはり、態度に現れて来るのであるから。
 本当に私どもは、これは取次者として思う事ですけれども、本当に神様有難うございますと云うと同時に、いわゆる、信者様有難うございますと云う様なもの。それは、信者にへつらえと云う意味ではない。それは、何かこう自分達は教会の者だから、自分達は偉いとの様な感じでも、もしあったり、上からこうやって下に見下ろしてから、教える様なものがもし、あったら大変な事である。求められて、あるものは与えられ。
 けれども内容もないのに、そう云う様な態度でもとりよったら、もうそれはすでに慢心。そう慢心は大怪我の元。本当に一つ、あのこのくらいの事ではと、このくらいの事はと、このくらいの事ぐらいはと云う様なものを一つ、私どもの生活から、徹頭徹尾除かせて頂いて、本当にこれ使わせて頂いても良いのだろうか、勿体無いという、その次に来るところの、勿体無いというものが伴わないもの。平気で当たり前でおるところに、いつの間にか、信心が崩れて行く、そこから大怪我の元が出来て来る、
   おかげを頂かなければいけません。